父の遺言③
はじめて自分で何かをこさえた(つくった)!と記憶にあるのは
その辺にあった木の端材でつくったブルドーザーだった。
特に重機がすきというわけではなかったが
端材をさわっているうちに
これはブルドーザーになるなーと思ったに過ぎなかった。
できばえだって、今もしそこにあれば
なんだこんなものか・・・とがっかりするに違いない。
ただ、作り終えたときの充足感は
今でも心の奥にはっきりと残っている。
人が工夫して何かを作ることは
なんというか・・・
己という存在の肯定につながる
大切な何かであると今でも思う。
父のつけた紳士服のボタンは、
10年取れなかったという。


これは、少なくともいまから40年以上前に父がつけたボタンだ・・・
冬物のコートに付けられたそのボタンは
まったくもって堂々たるつきっぷりで・・・
「10年持つ」を軽く超えて、いまでもとれる気配は微塵にない。
ボタン、糸、布・・・
ひと針ひと針、穴をくぐったであろう針と
父の手の動きを感じさせるそのボタンは
もはや物を超えた畏怖の対象となる。
残された物は
手作業をした主の存在そのもので
父がまさに そこにいるようである。
父の遺言③
なんでも工夫できる
自分でやってみなさい
今年の夏も ソラノモリ体験を行う。

わたしのやることだから
父の手作業には到底及ばないが
手から生み出されるものは
決して物だけではなく
あなたたちの存在とその実感であることを
少しでも伝えられればいいなと思う。
今年も暑くなりそうだ・・・

