令和誕生⑥・・・感じて漢字の世界
このブログでの「平成」「令和」シリーズも
そろそろ終わりにしようかと思う・・・
母を訪ねるとき、土曜日であれば必ず
ラジオ「感じて漢字の世界」を聞きながら行きます。
先週の土曜日は、「令和」の「令」をやっていました。
参考文献が、白川静さんの辞典なので
とても楽しみにしています。
白川静さんはもともと万葉集の万葉仮名を紐解くのに
漢字の世界に入った方・・・
いつの間にか、万葉集よりも漢字で有名になられた。
令和考案者とされている中西進さんも万葉集・・・
➡万葉と海波
学問畑は一緒になるのでしょうか・・・
わたしは、このお二人の対談を知らないし、
交流があったのか、なかったのかも知りません。
でも、お二人に共通するものがあるとすれば、
それは、漢字を人間だけのものにしなかったことである。
お二人の漢字論は、漢字=「かた」であり
神を下ろすための依り代になっていると知らせてくれます。
漢字に目を落とす視線を持ち上げて
世の中、特に自然や生活に目をやると
すべてのものが、神の言葉の依り代に見えるから不思議です。
また、皮肉なことに、漢字を紐解くと、
漢字文明に支配される前の人々の営みが見えてくる。
漢字は、中国であろうが日本であろうが、
古代の人々の暮らしの履歴書である。
それを、簡易な形にデフォルメしたものだ。
つまり、漢字は、権威的でありながら、
それでいて牧歌的風景の絵画でもあるのだ。
一画一画に、原風景の絵画が隠れているのである。
さて、日本には文字が生まれなかったと白川さんは言います。
厳密には、神代文字のような部族の文字はあったが、
漢字のような支配する道具としての文字はなかったのでしょう・・・
➡漢字の功罪
➡漢字侵略への抵抗
日本に文字が生まれなかった理由を
白川さんはこう分析しています。
「神聖をあきらかにしようとした王がいなかった・・・
もしくは、統一王も、統一をめざした王もいなかった・・・
神聖者との応答を解読し、それを表記したいとも思わなかった・・・」
つまり、神から降りる言葉を王一人のものとしなかった・・・
もしくは、王の所有物としなかった・・・
そういうことだそうです。
➡松岡正剛 千夜千冊
いまの時代、元号には二つの解釈があります・・・
「天皇が空間や時を支配する」と意味を込める団体がある一方で
中西進さんのように「こういう時代にしましょうよ」という
提案にすぎないと思う人々がいる。
白川説の、日本に統一王も、
統一をめざした王もいなかったを加えれば、
元号は後者ととらえるほうが自然な感じがする。
白川さんは、漢字の世界を深く掘り下げた先駆者だ。
それをいま、かみ砕いて人々に提案する中西さん・・・
いまは、数の論理で、無理強いをされ、
妙な「統合」をされかねない時代・・・
お上はとうに「調和」を失くしている。
➡【政治デスクノート】民主政権、強行採決のペースは安倍政権の倍だった
お二人の功績を紐解くたびに、
いまは単一の全体性を力づくで獲得する「統合」の時代でなく
多様でありながら、矛盾や衝突、無理がない
「調和」の時代なのだと気づかされる。
何度も書いて恐縮だが、
「令和」の時代が本当にいい時代になっていってほしい・・・
いのちあるものが いのちあるように・・・
そう願ってやまない・・・
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令和誕生⑤・・・情と理
「竹の花が咲いているらしいよ」
母は、竹の花が咲くと枯れるということを知っていた。
さすが年の功・・・
高速道路で帰途・・・
左右の竹林を見た。
やはり、枯れていた。
高速だったので画像は撮れなかったが
確かに竹林が茶色っぽく変色していて
竹がすでに立ち枯れで傾いているところも多かった。
時代の節目ということか・・・
➡竹の花は120年にいちど咲く!? 七十二候<竹笋生(たけのこしょうず)>
今日はお天気も良かったので
GW恒例の夏野菜の定植をしました。
この時期の畑仕事は本当に気持ちよく
土のエネルギーを肌で感じることができます。
その年その年で、耕した土に集まる虫の種類や多少が変わるので
それが一体何を意味するのか・・・
そんなことを考えながら定植してます。


これから、野菜も雑草もわっさわっさ伸びてきます。
程よく雑草を管理するのが大変になります。
大変なくせに畑をする・・・
この矛盾こそ人間なのです。
大変なもの、労力のいるものとわかっているなら
農薬をまいて、いやそれよりもアスファルト敷にすればいいものを・・・
わざわざ毎年、草を刈って、土を耕して・・・
「理」だけで考えれば、結構無駄なことをしているわけです。
苗を植え、その後を世話をするというのは
理屈抜きの「情」がなければできないことです。
しかし、これこそ人間の人間たるゆえん・・・
現在の憲法第9条を「情」を優先したものと評したのは
「令和」の考案者とされる中西進さん・・・
昨日の講演会が話題になっています。
➡令和考案の中西氏、安倍首相チクリ「十七条憲法尊重を」
ここでも何度も取り上げているが、彼はかつて言った。
世界情勢を見れば、9条を変えるべき・・・これが「理」。
しかし、二度と戦争をしないという「情」を優先した国は日本だけだと・・・
憲法第9条の改憲派の理由の一つに
アメリカに押し付けられたものだから・・・というものがある。
ところが最近これはどうも怪しい説になりつつある・・・
国会図書館の資料から・・・戦後二人目の首相、
幣原(しではら)喜重郎(1872~1951年)の証言が残っている。
「・・・憲法は押しつけられた、という形をとった訳であるが、
当時の実情としてそういう形でなかったら、
実際に出来ることではなかった。
そこで僕は、マッカーサーに進言し、
命令として出してもらうように決心したのだが・・・」
「第九条の永久的な規定ということには、彼も驚いていたようであった。
僕としても、軍人である彼が、直ぐには賛成しまいと思ったので、
その意味のことを初めに言ったが、
賢明な元帥は、最後には非常に理解して、感激した面持ちで、
僕に握手した程であった。
元帥が躊躇した大きな理由は、アメリカの侵略に対する将来の考慮と、
共産主義者に対する影響の二点であった。それについて僕は言った。
日米親善は、必ずしも軍事一体化ではない。
日本がアメリカの尖兵となることが、果たしてアメリカのためであろうか。
原子爆弾は、やがて他国にも波及するだろう。
次の戦争は、想像に絶する。世界は亡びるかも知れない。
世界が亡びれば、アメリカも亡びる。
問題は今や、アメリカでもロシアでも日本でもない。
問題は世界である。いかにして、世界の運命を切り拓くかである。
日本がアメリカと全く同じものになったら、誰が世界の運命を切り拓くか。
好むと好まざるにかかわらず、世界は、一つの世界に向って進む外はない。
来るべき戦争の終着駅は、破滅的悲劇でしかないからである。
その悲劇を救う唯一の手段は軍縮であるが、
ほとんど不可能とも言うべき軍縮を可能にする突破口は、
自発的戦争放棄国の出現を期待する以外にないであろう。
同時に、そのような戦争放棄国の出現も、また空想に近いが、
幸か不幸か、日本は今、その役割を果たしうる位置にある。
歴史の偶然は、日本に、世界史的任務を受けもつ機会を与えたのである。」
幣原は、憲法第9条の理念を形にするために
「アメリカから命令された形」を取ったのだ。
それはまるで、中西進さんが今回の元号を
「元号は中西進という世俗の人間が決めるようなものではなく、
天の声で決まるもの。考案者なんているはずがない」
そう談話したという。
人類の理想という形を叶えるために
あえて「個」や「我」を消す形をとったのとよく似ている。
また先日、こんなニュースも流れた・・・
幣原(しではら)首相が、在任中、
憲法9条への思い入れを託したとみられる
漢詩の掛け軸が見つかったらしい。
ずっと行方不明だった掛け軸が
いまこのタイミングで現れる不思議・・・
➡憲法9条 意義、漢詩に託す 幣原元首相の掛け軸発見 草案時期にしたためる
その漢詩がこうだ。
長 城 汪 遵
秦 長城を 築いて 鉄牢に 比す
蕃戎 敢えて 臨洮に 逼らず
焉くんぞ 知らん 万里 連雲の 勢
及ばず 堯階 三尺の 高きに
意味は、
秦の始皇帝が築きあげた万里の長城は、
鉄の牢獄に比べるほど堅かった。そのため
辺境の匈奴族も、臨洮には近づかなかった。
だが、万里も連なって、雲に接するほどの
勢いの長城も、あの聖王尭の宮殿の階段の
三尺の高さに及ばないとは、誰が知ろう。
つまり、軍需拡大した秦の始皇帝のやり方でなく
粗末な土の階段で平和を叶えた聖王尭のやり方をまねよう・・・
※聖王尭・・・中国,古代伝説中の帝王。
優れた見識と徳によって人びとを導き,諸国を平和へと導いた。
そういう概意である。
せまりくる「理」の中で、「情」は不要なのか
また、そもそも、世に言われる「理」は本当に事実なのか・・・
地球の半分を我が物にしようとしている国があるなら
それを超える「情」や「理」はないのか・・・
そういうことをしっかりと吟味しながら
令和のスタートを切らなければいけないと思う。
枯れていく竹は、
わたしたちにそう投げかけてるような気がする。
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令和誕生④・・・令和ええじゃないか
各地ではお祭り騒ぎだったようです。
➡「令和元年」到来、祝福ムード カウントダウン歓声
➡郡上八幡 令和徹夜踊り
まるで、幕末に起きた「ええじゃないか」みたいです。
日本の今の閉塞感をだれもがきっと感じているからでしょう。
令和が、それを打ち破る時代になってほしい・・・
そういう庶民の願いが爆発していると思います。
わたしは見えない世界を当たり前に生活しています。
寺社を囲む自然に神を見ますし、
そこに流れる厳かな空気も大好きです。
天皇の仕事に敬意を表しますし、
元号が改められて、いい時代が来ることを心から願います。
そして、こういったええじゃないか的なお祭り騒ぎは
個人的に大好きです。
ただ・・・
ただ、それらすべてを関連付けてあがめることはしません。
なぜか・・・
それをつなげると、
政治的・教育的・経済的に利用される隙が生まれるからです。
歴史的に見て、その隙の例は、枚挙にいとまありません。
近くは、国家神道・・・
明治に国家神道がうまれ、第二次世界大戦終了まで
国民は一つの道に導かれた歴史があります。
国家神道が生まれる前は
自然神、神仏習合、ごちゃまぜの神様、八百万の神・・・
沖浦さんは言います。
➡「日本人」はどこから来たのか
私たちの言う「日本人」とは、
いくつかの異なる系譜をもった民族集団が、
複雑にからみあい混じりあっており、
決して「日本人」というひとつの系譜にはまとめられない。
同様に、日本文化といわれるものも、
渡来してきた民族集団がそれぞれ持ち込んだものが混じり合い、
あるいは日本の風土に合わせて変化してきたものなのです。
日本という概念も
日本人という概念も
日本文化という概念も
ひとつにまとめ上げれるものではない・・・
私もそう思います。
➡古代日本のアイデンティティ
なぜ、私がこのことを強調したいかというと、
ことさらに「日本人」の優秀さを強調したり、
「日本人」としてどうあるべきかという精神論、教育論を
国民に押しつけようとする風潮が根強くあるからです。
これだけ情報にあふれた社会でありながら、
「日本人」がどうやって形づくられてきたかは驚くほど知られていません。
私たちはまず、私たち一人ひとりのルーツは
多様であるという事実を知る必要があります。
沖浦さんのこのレポートを
私は何度ものっけますが、
それは、これを理解しないと、
例えば、神社に憲法改正の署名用紙や旗がたなびくことに
違和感が生まれないからです。
いつの時代も、巨大で、力ある団体、
イデオロギーに認定された「神」が利用され
その国や民を一定の方向へとかりたててきた歴史があります。
それは日本だけではありません。
どんな宗教・国でもありうることなのです。
もう何度も歴史が証明してきています。
日本政治は、政教分離という原則があります。
しかし、いまや「日本会議」をはじめ関連諸団体によって
その原則は反故になっています。
➡日本会議
その事実を冷静に見ながら
私は令和をお祝いしたいですし
いい時代になるよう一人の庶民として祈りたいと思います。
ちなみに令和のカウントダウンは、
昭和の名残が残るあるスナックで迎えました(笑)
庶民が笑い、歌いあう昭和が飛び交う
本当に懐かしいお店でした。
あたらしい時代が幸せになるようにと願う庶民の思いが
政治や教育や経済に利用されるのはもう勘弁してほしい昭和人です。
➡古賀茂明「安倍総理に言いたい。『天皇陛下の政治利用は止めてくれ!』」
➡田原総一朗×古賀茂明「安倍首相は天皇陛下で人気取り」政治利用に苦言
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令和誕生③・・・散歩、ときどき赤ちょうちん
自宅から津駅前の蕎麦屋さんまで歩いて行って
そこで「一杯」・・・というコースを楽しんだ。

なんせそこは14:00~17:00は
アルコールが半額なので(笑)
お財布に優しい赤ちょうちんだ。
今年は歩け歩け元年を意識しているからか
中々順調に経験を積んでいる。
先日も名古屋駅から大須観音まで歩いた。
何十年かぶりに歩く名古屋の街は、
かわらず消費的刺激と緑が多い街だった。
幼いころの買い物は、岐阜に近かったせいもあって
そちらを利用したが、名古屋の街は本当に久しぶりに歩いた。
田舎だろうが都会だろうが、
歩いていないと気がつかない小さな路地が必ずある。
その路地には確実に人の営みがひっそりと守られていて
その気配を垣間見るのがわたしは好きだ。
田舎と都会を比べて云々という人もいるが
そんなことは全くのナンセンス・・・
どこにだって いのちの営みはある。
そう、いつでもどこでも住めば都なのだ。
さて、一日一万歩がいいとよく言われるが
その是非はよくわからない。
私自身の体調に合わせて・・・と
こだわらないことにしているが
それでも一万歩を超えると何やら達成感があるから不思議だ。
一時間ほど歩いて蕎麦屋に到着・・・
16:45頃ついて無事半額に間に合った(笑)
一万歩は行かなかったが
5月の風薫は本当に気持ちよかった。
ご褒美に、もちろんビールをいただく・・・
車、バイク、自転車、徒歩・・・
使う交通手段によって、見る風景は違う。
目線、目の動線が違うのだ。
特に、車と徒歩は雲泥の違いである。
最近の子どもは、目が動かなくなったと先日の講習会で聴いた。
スマホやゲーム機の一点だけを見つめることが多いからだ。
目の動きが貧困になると、気づく力が衰える・・・
距離だけ見れば、松尾芭蕉の時代より、
現代の人は何百倍も移動しているという。
なのに芭蕉のような句や文が書けないのが現代人・・・
それは気づく力が退化しているからといえるかもしれない。
うまれた時から、車があって、スマホがあって、ゲーム機があって・・・
スマホでさえも、現在11歳以上はすべて生まれた時からあるらしい。
これからどんどん低年齢化して、必ず0歳となる。
幼稚園や保育園・小学校で歩きの遠足をよく見るが、
行列を作って、目的地へとわき目もふらず歩いていく姿は実にもったいない。
安全のことを考えてだろうが、
道草をして目を動かすこと・・・
それも大事なような気がする。
歩いているとなるほどと思うことがある。
それは、人が物事をとらえるのは
大いにスピードに影響しているということだ。
話すスピード
間の取り方
動作の緩急
目線の動かし方
そういったもので人の印象が変わってしまうのは
からだが好むスピードというものが人によって違うからなんだろうなー
スピードを得たわれわれは、何を得て何を失ったのか・・・
そんなことを考えながら帰りは、電車と歩き・・・
・・・ほろ酔いで帰途についたのでした・・・
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令和誕生②・・・令和育て、自分育て

とても矛盾したことを書きますが、
軸が建てられない人は、
人と自分を比べていない人だと思います。
徹底的に比べて比べて、
それをあきらめた人に
初めて自分軸というものが浮き上がります。
軸は、建てるものではなく
浮き上がるものです。
それを個性という人もいますが、
わたしにとっては少しニュアンスが違います。
人と比べて、自分にはないもの・・・消去
人と比べて、ほぼ同じようにあるもの・・・消去
人と比べて、一部自分にもあるもの・・・消去
人と比べて、ほぼほぼ自分だけにしかないもの・・・残す
人と比べて、自分にしかないと思えるもの・・・残す
そうやってそうやって消去しつくして
残りカスのように残ったものが個性です(笑)
特別なもの=個性
ではなく、残りかす=個性なのです。
「心の欲する所に従えども矩(のり)を踰えず」
自分の思うがままに行なっても、正道から外れない。
これが令和の時代です。
白の中の白が光る・・・
黒の中の黒が光る・・・
そういうイメージです。
一見みんなと同じ色なのに
その残りかすが光っている・・・
そんな感じです。
だからひょっとすると
消したくて消したくて、
それでも消せない苦しいものが個性だったりします。
(その場合その苦しいものを新しく上書き保存しなおさないといけませんが。)
また、自慢できるようで、自慢できないものが個性です。
それがわかるための平成30年間だったのです。
平成は、ある意味わざわざ目立たないと目立てない時代でした。
だからネットやSNSが進歩したのです。
だから著作権も声高に言われました。
令和は変わっていきます。
表現してないのに表現されている・・・
目立っていないのに目立っている・・・
著作権なんてわざわざ言わなくてもいい時代・・・
そういう時代です。
個性は残りカス・・・
そういう謙虚さと中庸さの時代です。
「私は、○○の生まれ変わり」
「私は、○○の血筋」
「私は、○○とつながれる存在」
「私は、○○とご縁がある」
しかも、それっぽい場所に行って
付加価値までつけて見せびらかす・・・
そういう、エセスピ系はいらなくなります。
自分を美化し、見せびらかす時代は終わり
それに付いて(憑いて)いく時代も終わりです。
昨日の「辞書に使われる」・・・これをやめるのと同じで
「目に見えない存在に使われている」ことに気が付き、
本当の自分軸時代を見つける人が増えてきます。
わたしたちの個性は残りかす・・・
それを好きになれると上書き保存できますし、
好きになれなければ下書き保存されて、劣等感になります。
平成は、この上書き保存で優越感の罠にはまってしまう人が多かったです。
そういう人は、さりげなく(けどバレバレの)自慢・見せびらかしの世界をつくっています。
しかし、残りカスとわかっている人は
とても中庸な穏やかな境地になるのです。
英語で言えば、「proud」 でも 「boast」 でも 「brag」でもなく
「being」に近い性質になります。
足りないわけでもなく、余っているわけでもなく
ちょうどいい感じ=調和になるのです。
「何かに似ている」と言うのも
「何かと違う」と拒むことも
「何かとつながっている」とほくそ笑むことも
すべて、劣等感から来ています。
実は、皮肉なことに、それが
強烈に人と比べている証拠になってしまっている・・・
だから、必死に埋めようとして見せびらかしになる・・・
もう苦しいでしょう・・・
令和に時代は、もうそれは必要ないし
通用しなくなってきます。
人と比べないというのは
ある自分軸を持つことで初めてできることですが
自分軸がない人が「比べない」と言われてもピンとこないのです。
どうしても比べてしまうのです。
でも、それでいいのです。
比べて比べてそして、もう比べることに飽きない限り
この「比べる」というのをしてしまうのが人間です。
比べた結果
あの人にはあるけど、自分にはない
あの人はできるけど、私はできない
・・・じゃあ、自分って何だ!?
というところにたどり着くのです。
比べて落ち込んでいるときは
その足りないところを必死で自分で埋めようとしたり
人に頼って埋めてもらおうとします。
そのどちらも無理だとわかった時に
はじめて・・・自分ってなんだ!?と考え始めます。
「心の欲する所に従えども矩を踰えず」
自分の思うがままに行なっても、正道から外れない。
一気にはきませんが、
そういう時代の始まりです。
令和は、万葉集から取ったといいます。
その万葉集には「詠み人知らず」の歌が多いのです。
令和はそういう時代です。
「詠み人」になろうと力まない時代・・・
「詠み人」が誰であろうが、心動かされる時代・・・
発信という場を奪い合わない時代・・・
そういうことです。
我れのみや かく恋すらむ
かきつはた 丹つらふ妹は いかにかあるらむ
詠み人知らず
こんな風に恋をしているのは私だけなのでしょうか。
かきつばたのようなきれいなあの娘はどうなのでしょうか。
「詠み人知らず」・・・なんとすがすがしい立ち位置でしょうか・・・
そういう自分軸にそだてるのが「令和」という時代です。

カキツバタの花言葉「幸運は必ず来る」
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