ストレスの正体は?
お陰様で もう3年ほどになります。
目的は、「ピンピンコロリ」で生きるため・・・
店を始めて10年以上
何も運動をしてこなかったので
これではいけないと一念発起・・・!
相方のpiyoさんと行くので
励まし合いができるので続けられたんだと思います。
仲間がいることはとても大切ですね・・・
で、今日も行きましたが
始める前のそれぞれのウォーミングアップを見て
ふと思ったのです。
誰も同じことをしていない・・・
当たり前なんですが、
誰かの指導の元だと
絶対に同じことをさせられます・・・
ウォーミングアップは、
それぞれの身体と自分との対話・・・
型はないはずです。
どこが痛いのか?
どこが固まっているのか?
どこを伸ばすと気持ちがいいのか?
身体の要求は人それぞれです。
人の顔は千差万別、
じゃあ、身体も千差万別・・・
わたしたちは、解体新書の時代から
身体はみな同じつくりと思い込んでいる・・・
ハラで、皮膚で、考えずに、
部品で考えるようになった・・・
極端な身体機械論です。
身体が求める準備運動も
どこを強めて鍛えたいかも
人それぞれなんじゃないかな・・・
そんなことを考えていました。
私もpiyoさんもそうですが、
インストラクターの言うとおりにやって
怪我をしています。
インストラクターの方も仕事ですから
インストラクターの方が悪いわけではありません。
ただ、申し訳ありませんが、
私たちはやっぱり、
インストラクターのいない早朝に行きます。
その方が、怪我なくマイペースでできるからです。
そのフィットネスも
最近はインストラクターの人が
いない時間の方が 人が多いのです。
この世はあらゆるものが「自動詞」・・・
勉強の指導をしていても
フィットネスに行っても
よくよく観察していると、
つくづく「この世は自動詞」を感じます。
皆さんも好きにやればいいのです。
もちろん一時には他動詞があってもいいのでしょうが、
あくまでも自動詞へのきっかけです。
それをいつまでも続けていると
間違いなくうまくいかなくなります。
それをこの世では、
「ストレス」というのです。
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努力しないわけじゃないけど、無理もしない
すでに10月も中旬に入ろうとしています。
この世は自動詞で成り立っている・・・
これは私の持論ですが、
おそらく間違っていないような気がいたします。
私は、だいたい週2回ほどフィットネスに行っているのですが、
そこは、大きな等身大のタブレットに向かって
黙々とメニューをこなすタイプです。
定期的にカウンセリングを受けて
メニューの変更調整を行う以外、
極端な話、
スタッフの人とやり取りなくても
淡々と運動・筋トレができます。
私のジム通いの目的は、
健康維持、筋力維持で
死ぬまで自分の足で歩くこと
寝たきりにならないこと
ピンピンコロリで死ぬこと・・・
そして、何よりも続けられること・・・
こういった目的ですから、
無理はしたくありません。
張り切りたくもありません。
だから、大変申し訳なく思うのですが、
たまに、スタッフの方と居合わせた時
あれこれとサービスのつもり、また
コミュニケーションのつもりで
会話をされ、張り切って接しられると、
「自分のペースでさせてください」
と やんわりと、でもきちんと言わせていただきます。
「自分のペースでやると
鍛えられませんから・・・」
おそらく、そんな価値観の方が多いかもしれませんが、
果たしてそうでしょうか・・・
目の前には等身大のタブレット画面があって
人が登場してやり方もわかるし
上手くやれていないとアドバイスも出てきます。
私のような年齢で、私のような目的の人は、
張り切ってやらされることによって
怪我も多くなります。
人のペースというのは、
自分の身体との対話を奪います。
これが怪我の元です。
きっと自分の身体というのは
自分の命令でしか動かないできていると思います(笑)
そういう意味でも
この世は自動詞の原理で成り立っていると思います。
この世は自動詞で成り立っている・・・
このシンプルな原理でこの世を見ると
今までよくわからなかった様々な混乱がほどけたり、
そして、子どもたちにどう接すればいいのかの
方向性がシンプルに定まってきます。
私が、塾の当たり前をやめたのも
それに気が付いたからです。
皆さんもよろしければ、この原理原則でも
世界を、自分を、人間関係を眺めてみてください。
きっと、「気張る」という力みが
日常から薄れていきます。
私もまだまだですが、
きっと、すべての健康・・・
身体も、心も、
人間関係も
見えてくることでしょう・・・
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tag : 自動詞
春、穀雨のころ⑫・・・天文は人文
明を訪れたヨンシルの才を見抜きかわいがる。
明王の親戚が、奴婢のヨンシルをかわいがる・・・
大陸の身分制度を考えれば
これはすごいことだ。
ヨンシルが迫害され、野に下った後、
流れ着いた村の民のために日時計をつくる。

節気や時を知った村民は、
農耕や市の開催にその時計を利用し、
活気を生み出し、豊かになっていく。
わたしたちは今当たり前に時を知ることができる。
わたしのちいさな畑も
そのおかげで定植の時期や収穫の時期を知る。

暦が私たちにもたらす恩恵は計り知れない。
先人たちの計り知れないこの努力が暦なのだ。
この「ヨンシル」の」影響で
「二十四節気への手紙」も書きたくなった。
さて、このころ・・・
ヨンシルは朱太監(チュ・テガン)と再会。
ヨンシルは、朱太監(チュ・テガン)を市に連れていき、
村人の生き生きとした姿を見せる。
そこで言う朱太監(チュ・テガン)のことば・・・
ヨンシルは、
「天文を極めるうちに
人の何たるかを悟ったのだ」
天文は、人文に通じる。
つまり、
天文は人を知るためのものである・・・
と告げるのである。
まさに・・・
わたしたちのありとあらゆるなりわい・・・
仕事も趣味も、家事も田畑仕事も・・・
学ぶことも、遊ぶことも・・・
ほんとうに何もかも・・・
「人を知るためにある」
まさにそうだなと思った。
「太陽は、皇帝でも王でもなく、ただの天体であり、
天文現象は災いではなく自然現象だ」
「天は皇帝や王のものではないと
みなが悟った時・・・
天の威を借りて
権力を握っていたものが
力を失うのは当然だ」
「今後 人を中心に据えた世になれば
王など いなくなるかもしれぬ」

天文・・・いや学問すべては
人を中心(幸せに)とするためのものであり
庶民のなりわいを豊かにするもの・・・
そう朱太監(チュ・テガン)は言いたいのです。
わたしたちは
この世を選んで生まれ、
自分で名付けてこの世を生き、
自分で名付けた道を歩む・・・
自分が○○する・・・
この世はすべて自動詞・・・

そう、天を知り、自然に学び・・・
自分で決めればいい・・・
theme : スピリチュアルライフ
genre : 心と身体
十年、をちこち・・・61
つながったから、どうのこうのを期待するのは
私は何か違うと思います。
-意見には個人差があります-
流れの中で結果として
ご縁が売り上げとなることもありますし、
それはそれで本当にありがたいことですが、
ご縁が連れてくるのは、
なにも「円」だけでなく
「気づき」「暖かさ」「振り返り」
「智慧」「勇気」「喜び」など目に見ないものです。
そして、
その時は「なぜ出会うのか」がわからない
ことのほうが多いです。
この10年、手作り市やお店を通して
本当にいろいろな方に出会いました。
ほんとうのご縁をたくさんいただきました。
ありがたいことです。
ただ、一方で
「ご縁」とほほ笑む人が
逆に、その縁を利用したり、
その縁をご自身の感情や都合で壊す様なども冷静に見てきました。
何か違います。
縁というのは、悪縁、良縁 両方あります。
その悪縁は、何千年スパーンで見た時、
「ただ自分がしたことが返ってきただけ」という
自分の魂の宿題(業・カルマ)です。
自分が蒔いた種を刈り取っているにすぎません。
その悪縁を、
見て見ぬふりをしたり、
すり替えたりして排除し、
都合のいいご縁だけを捕まえようとすることを
総じて「欲」というのです。
挙句の果ては、
「そういうお役目で私の前に現れてくれたのですね」
という、何目線かわからない位置に立たれます。
「円」を「縁」と書いて
何やら違和感があるのはそういうことです。
もっと根本のところでは
「縁」は壮大です。
人が、消そうとして消えず、
生み出そうとして生み出せないのが「縁(えにし)」です。
「円」を「円」として受け止め、
「縁」を自分の都合でコントロールせず、
ありがたくまずは全て受け止める・・・
ですから私は、
「円」を「縁」としてあやふやにすることで
ほんとうの「ご縁」を汚したくないですし、
潔く手放すべき「ご縁」は風のようにかろやかに
過ぎ去らせていきたいのです。
ランチは800円ですし、
ドリンク付きは900円です(笑)
そして、だからこそ・・・
日々の本当のご縁の妙におもわず手を合わせるのです。
人は、天地のつくったご縁を、簡単に
じぶんの我欲でつくり替え、すり替え、
時にはぶち壊していくものなのです。
いえ、壊す力をも持っているのです。
だからこそ人は、「お互い様」と人を許すユーモアと
「言行一致の厳しさ」との両方を持たないといけないのです。
そういう人たちが集まり、笑い声が響く・・・
そういう場を「美」というのではないでしょうか・・・
-意見には個人差があります-
theme : スピリチュアルライフ
genre : 心と身体
tag : 「意見には個人差があります」自動詞縁
十年、をちこち・・・㊴
華やかな洋服で外身を着飾るようにしか接していない人にとっては
気に入る効果や成果がなければ、すぐに離れ、
じきにスピリチュアルなど気にも留めません。
「感謝をする」というのは
自動詞であり、
唯一無二であり、
他のなにかと意図的につなげるためには存在しない
いわば、単独の光です。
相談を受けていて
「感謝って大切ですね」
と伝えると、
「感謝すればいいんですね!」
と言われた方が、ごまんといらっしゃいました(笑)
そういう方は、感謝をすれば何かいいことがあると思っていらっしゃるようでした。
そうではありません。
「感謝する」は、「ある」と等しい状態であり、
それ以上でもそれ以下でもありません。
おわかりいただけますでしょうか・・・
「これをしたらどうなりますか?」
「どうしたら、できるようになるでしょう」
方法論でしか考えられない いのち・・・
原因と結果の近代論理がすべてと考える アタマ・・・
「ただ、ある」
というのが、すごく得体が知れないもののようです。
木ぃじいちゃんは、
「いのちを育てよ・・・」
とわたしに言います。
わたしは、そのためにはどうすれば?などと野暮なことは聞きません。
ただ、そういう存在になることだけ・・・
そして、ここで生きるだけです。