「先生」が生まれる時
自分が先生と名乗れば先生になるわけではありません。
ましてや資格をいただいたからとか
大学を出ているからだとか
そんな外的要因で先生になれるわけではありません。
その人と対峙し、
言葉を交わし、
その人の存在を感じて、
その人から何かを学びたいと
相手が感じた時に初めて「先生」が誕生するのです。
昨日は、虚空蔵菩薩を探して3社を巡りました。
松阪、福源寺
松阪多気、金剛座寺
同じく、普賢寺
上記の2社に虚空蔵菩薩さんが存在しますが、
ともに蔵に収まったままでご拝顔を賜ることは叶いませんでした。
しかし、思いがけず辰年のわたしの守り本尊
普賢菩薩さんに出会えました。
こういう偶然があるので
ドライブや小旅行はやめられないのです。

仏様は、どの仏様ももちろん深く心にしみわたる
お顔をされていらっしゃいますが、
こちらの普賢菩薩さんは、
なんと1300年以上も前のそのままのお姿で
鎮座していらっしゃいました。
しかも、格子越しとか、
小さな窓からちらっと、ではなく、
すぐ傍まで行って
お顔を拝見することができるのです。
その上に撮影も可能です。
こうして、この気の遠くなるような長い年月、
よくぞ同じお姿で残っていただいたと思わず手を合わす・・・
そして、それを彫った仏師というのは
決して自分が彫ったんだと声高にどこかに指し示すこともしていません。
私が、かねがね著作権というものを怪訝に思ってしまうのは
こういった仏様から教わることがあまりに多いからです。
冒頭の「先生」が生まれる瞬間というのはこういうときです。
この普賢菩薩さんは、
「わたしは師である」などと決して言いません。
見る側、空気を共にするこちら側が
思わず、本当に思わず、頭を垂れてしまうのです。
私が何を感じたのか、
私がその後、どう変わるのか
それは、この普賢菩薩さんと私しか知りません。
チェックテストを受けることもありません。
しかし、それは私だけが知っている・・・
再び訪れようが、訪れまいが、
心の中に永遠に残る何か・・・
師との出会いとはそういうものです。

こちらには、私にとってこれまた思い入れのある
十一面観音さんもお見えでした。

拝観中、ご住職の母君(82歳)がお話をしてくださいましたが
とても分かりやすく詳しい説明でありがたかったです。
事前にお願いすれば、ご住職の法話も拝聴できるとのこと・・・
また伺いたいなと思う、ありがたく尊いお寺でした。
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