秋、白露のころ⑧・・・無知の知
日本のルーツ(上古代)や自分のルーツを調べたりするのが大好きです。
日本で最古の歴史書といわれる「古事記」「日本書紀」は
歴史の勝者である為政者の意図がふんだんに盛り込まれているため
その信ぴょう性に「一点の曇りだらけ」です。
ですから、自分で調べて落とし込む以外に方法はありません。
またその2冊に便乗した「神社」などは、
歴史的建造物、しきたりとしては
確かに歴史的価値はありますが
祀られている「神」に至っては、
これまた為政者の意図がふんだんに隠れていますので
自分の感性と知性をフルに使って
本当にエネルギーのある「場」を感知しながら
「神とは何か?」を自問しながら
謙虚にお参りするのがわたしの常となっています。
誤解を招くといけませんので付記しますが
わたしは「神」「神社」「祈り」「信仰」を
否定しているわけではありません。
人間が作り出した神に、
人間が作り出した「自分に都合の良いナルシストの物語」に
嫌気がさすだけです。
人間の便乗が作り出した「曇り」を
ささやかな個人として晴れやかにしたいだけです。
おそらくこの旅は、生涯続くでしょうし、
きっと終わりも答えもないと思います。
きっと「これが絶対の真実!」と
たどり着けるものではないでしょう・・・
「壮大なロマン」などと言って逃げるつもりもありませんが
おそらく非力な一人の人間にたどり着ける範囲などは
偉大な先人たちの知恵を拝借したとしても
たかがしれているということです。
世間では、まことしやかに・・・
まるですべてをわかったかのように・・・
「この神社の御利益が・・・」
「この神が○○を叶えてくれる・・・」とか
はたまたぶっ飛んで
「ハイヤーセルフとの対話で幸せに・・・」とか
「ツインソウル、ソウルメイトで幸せに・・・」とか
「日本を救う方法はこれ!」とか
「(○○星の宇宙人言った)君は地球を救う人の一人・・・」とか
どこかの本やだれかから聞いたことがあるようなことを
まるで自分が発見したかのように(乗っ取り)
ブログや商業活動等で自己顕示されているスピリチュアリストが多いですが、
自戒も含めてお伝えします。
そんなに単純ではありません。
是非、ソクラテスの「無知の知」を噛みしめてください。
無知であることを、知っている(自覚している)・・・
ソクラテスは言います。
「彼らは、私と同じだ、善美について知らない。
ただ、彼らはそれを知らないのに知っているつもりでいる、
私は知っているとは思っていない。そこが、違いだ。」
(※彼ら=「ソクラテスより、知恵のある者はいない」と思った友人や賢者たち)
所詮「観える」「観えない」の世界は、
「私はこう感じますけど、あなたはどう思いますか?」
「私は今のところこういう所にたどり着きましたが、
これが絶対ではありません。
あなたはどこにたどり着かれていますか?」
に過ぎないものです・・・
その謙虚さを忘れて「こうだ!」と決めつけるのは
善悪を通り越して、滑稽ですらあります。
人の感性や知性に便乗し、乗っ取る行為は、
さび付いた感性を磨くことなく、
「真実の探求」をさぼったもののする
恥じ入る行為と自覚されるべきです。
実は、この乗っ取り行為は
はるか何千年も昔から行われています。
古くは、高度文明で生きていたシュメール人とその土地を乗っ取り
彼らの歴史や神話、しきたりを乗っ取ったユダヤ人がそうですし、
縄文では、口伝えが主流だったムラの神話、しきたりを、
これ幸いにと大陸から流れてきた難民(敗者)の貴族皇族≒さまざまな氏族が
各地で婚姻、乗っ取りを繰り返していきました。
大きな流れでは、それが文武天皇の「大宝律令」まで続きます。
そういう意味で日本は単一民族などではありません。
さまざまな敗者復活戦が繰り広げられたクニです。

(偉大な先人のお一人、沖浦和光さん)
➡「日本人」はどこから来たのか 沖浦和光
こういった乗っ取りは、歴史的にはかなりの常套手段ですが
特に、スピリチュアリスト個人として探求をさぼることは
決して感心できるものではありません。
「乗っ取り→なりすまし」に至っては言わずもがなです。
なぜなら「真実探求」は「スピリッツの探求」であり、
「魂の鍛錬」です。
野球の選手がランニングを怠るのと同じ行為かと思います。
(とわたしは思います)
どうぞ、その乗っ取り行為から生まれる「スピリチュアル商品や体験」で
安易な「商業」行為はお控えください。
もちろん、長い歴史の中で、真実は
見出した人の数だけ存在しましたので、
これからもどれが真実かはきっと誰にも特定できないでしょう・・・
しかしたどり着けないからと言って
手っ取り早く「乗っ取ればいい」とはなりません。
ソクラテスの「無知の知」と同じで
乗っ取りの自覚がない人が一番大変ですが・・・
人間は「善美」の極みにはたどり着けないのでしょう・・・
しかし、だからといって
「善美」の極みを追い求めなくていいことにはならないのです。
「自分の感受性ぐらい」 茨木のり子

(茨木のり子さん談 より抜粋)
それに、一億玉砕で、みんな死ね死ねという時でしたね。
それに対して、おかしい んじゃないか、死ぬことが忠義だったら
生まれてこないことが一番の忠義になるんじ ゃないかという疑問は
子供心にあったんです。
ただ、それを押し込めてたわけですよね。
こんなこと考えるのは非国民だからって 。
そうして戦争が終わって初めて、
あのときの疑問は正しかったんだなってわかった わけなんです。
だから、今になっても、自分の抱いた疑問が不安になることがあるでしょ。
そうしたときに、自分の感受性からまちがえたんだったら
まちがったって言えるけれども、
人からそう思わされてまちがえたんだったら、
取り返しのつかないいやな思いをする っていう、
戦争時代からの思いがあって。
だから「自分の感受性ぐらい自分で守れ」 なんですけどね。
一篇の詩ができるまで、何十年もかかるってこともあるんです。