私の原点
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小学校の時にご覧になった
「路傍の石」の映画のエピソードをお話になり、
丁稚奉公先で先輩にいじめられる小説内の少年に向かって
「あんなところ出てしまえばいい!」
と真剣に怒ったそうなのです。
それがマドモアゼル愛さんの「私の原点」であり、
みずがめ座(マドモアゼル愛さん)の良さともいわれた。
おとめ座など、土の星座は、自分のお役目と思えば
嫌なことでも、仮に悪事であっても
腹をくくって全うしてしまう強さがあると
みずがめ座(ご自身)と比較してお話されていた。
ただ、残念なことに(笑)
昨日のブログでも書いたが、
乙女座であっても、私の場合は生憎、その要素よりは
マドモアゼル愛さんのようなみずがめ座の要素が強い・・・
なぜだろう・・・
ホロスコープでMCがみずがめ座であることも大きいのか・・・
そして、
「私の原点」
ふと考えてみた。
原点というのは、知識でも、単なる経験でもない。
心が震えるほどの場面に出会い
心の底から生まれた言語によって浮き上がってくるものなのだ。
➡人間の尊厳
先生である前に、人間・・・
私の場合これかもしれない・・・
先生でありながら、声を荒げ、
激しく生徒の手を払いのけたあの先生が原点だ。
先生である前に、人間・・・
職業などの肩書、
ソフトボールやダンスなど
真剣に打ち込んだ活動を取ってしまったときに残るもの・・・
すべての外身をとっても残るもので勝負しようと青年期から思えたのは
あの先生の迫力と尊厳であった。
最近特に思う・・・
職業でもなく、
肩書でもなく、
打ち込む活動でもなく、
○○さんのお母さんとかの家族構成でもなく、
もちろん、スピ系で何かが見えるとかでもはなく、
たった2本の足で立った時の自分・・・
そこでしか「わたし」はいないということ・・・
わたしが、ふわふわ・わくわく・キラキラのスピ系を嫌うのは、
ふわふわ・わくわく・キラキラの奥に、
その人が二本の足で立っているのが見えないからだ。
いや、はっきり言ってしまえば、無いのだ。
無いから、
何かが見えるとか、
前からわかっていますとか、
宇宙はこう言っているとか、
そんなどうでもいい装飾品で身を飾るのだ。
そんなものは、自分だけワークの答えを握って
答えのわからない生徒に対して
ドヤ顔で授業をしているに過ぎない。
➡人間の尊厳
この話の中に出てくきたあの先輩・・・
安っぽいドラマのように手を差し伸べた
あの先輩のような軽さがいまのスピ系に多い。
「宇宙はね」と一言聞かせるだけで
へぇー!ははー!と、ひれ伏す輩が大枚をもって
嬉々としてやってくるのを
手ぐすねを引いて待っているだけの存在だ。
人生楽しいことをやればいい・・・
私もまったくの同感だ。
でも楽しさの中にも中身があり、質はある。
空っぽの楽しさは、
本来向き合わねばならない不都合な真実から目を背けさせる。
どうして、この気持ち悪い「楽しさもどき」を
なぜ滑稽と思わないのかが不思議でならない。
そもそも、宇宙(神といってもいいが)との対話など
完全に1対1の世界なのだ。
そのありがたい!?人を介してしか降りてこないのなら、
それは、かつてローマ教会がやった手口と変わらないのだ。
教会や法王を介してのみ、
神の声が降りてくるとうそぶき、
罪を許してくれるのも
免罪符を買った人だけなのだと
人々を都合の良い一定の方向へ洗脳・先導していく手口そのものだ。
こうして、似非教会、教祖ができあがる。
私はこうだが、あなたはいったい何なのだ?
余分なものを取っ払ったその一本、
その一本だけで十分なのだ。
風の時代に教祖はいらない。
誤解を招くかもしれないが、あえて言うなら、
自分自身が自分自身の教祖となればいい。
しかもその教祖は、実に心もとない心細い存在だが、
魂だけは、やたらと楽で、やたらと輝く存在なのだ。
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